行き過ぎたミニマリストと拒食症がかぶる
誤解を恐れずに、思ったまま言うと
昨今の行き過ぎたミニマリストなどを見ていると、病気なんじゃないかと思えてしかたがない。
いや、ミニマリストや拒食症をバカにしてるわけじゃなく、心配な意味で。
別に自分に”正しい生き方”なんて説く力も立場もないんですけど、
ふと、テレビなんかで、過剰なミニマリストや逆のゴミ屋敷住人なんかをテレビで見ていると、摂食障害と似たものがあるなと思ったので書いてみた。
まずは、以下に拒食の心理や症状なんかをwikipediaから抜粋してみた。
典型的なANの患者では、体重を落とすために始めたダイエットで達成感が得られ、体重を落とすことを止められなくなってしまう。低体重であっても自分の体重を多すぎると感じ、さらに体重を減らすことを望む。鏡を見ても「まだまだ痩せられる」と感じるのみであり、体重が低すぎるとは考えない。
自分の思う通りにならない自分を、摂食行動において完璧にコントロールし、痩せを維持できることは、万能感・高揚感を与えてくれる体験である。食事をコントロールし、自らの体を過度にコントロールしようとする心性の背後には慢性的な不安が控えており、摂食障害者は一様に強迫的な性格傾向を有する。
自分には何の取り柄も無いという自己不信を根底に抱える人は、その抑うつを防衛するために、人とは際立って違う、優れた、特別な自分であり続けなければならない。彼らは幼い頃から常に「自分が自分以上でなければならない」という強迫観念に支配されている。やせを実現するには、食欲を抑え、自分に打ち克つ必要がある。やせる事に成功した時には、自分をコントロールすることが出来たという万能感が得られる。幼い頃から課題に挑戦し、自分に打ち克って結果を得てきた彼らは、結果を出す事で得られる賞賛と万能感により、中核にある自己不信を救済する。
彼らは負けず嫌いであり、そしていつも負けていると思っている。現実の中で特別な価値の獲得に失敗した人は、「せめてやせていないと取り柄がない」という感覚から、誰もが望み、簡単には出来ないダイエットへと挑戦する。やせることは最も身近な外的価値の収得であり、ダイエットの成功は直接的に自己価値を高める。それはやせることには価値があり、その為には努力しなければならないからである。価値意識は「どれだけやせているか」へと変換され、体重増加は恐ろしいほどの価値の低下に繋がる。他と変わらない体重は「並」「平凡」「普通」であるため、輝くことで自己不信を払拭してきた彼らには決して許容することが出来ない。やせを希求する女性にとって、男性はほとんど意識されておらず、その競争相手は同じ女性である。人よりやせていることは、現代社会の価値観においては「勝った」ことに繋がる。人よりやせる事は、常に人より上に立ちたい、勝ちたい、輝きたいと願う彼らの存在証明でもある。拒食は自己愛の病理と深く関連しており、自己愛性心性を扱うことが求められる。
こんなところ。
この引用を、体重=モノ、やせる=モノを捨てるでもう一度読んでみて欲しい。
なんか、行き過ぎたミニマリストに対して感じる違和感にしっくり来るものがあったんですよね。
そもそも、昔から、最小限のモノで質素に暮らし、それに満足している人たちというのは普通にたくさんいた。ただ、そういう人たちはごく普通にひっそりと暮らしてた様に思う。
今のミニマリストはやけに、ミニマルであることを自慢しアピールし強要してくる部分が強く感じる。
他人にミニマルである事を認めてもらう事を強く欲求しているみたい。
別にこれを書いて、ミニマリストを批判したいわけでもなく、私も、みんな生きたいように生きればいいじゃんと思ってる。
ただ、ミニマルをなんでこんなにも強要してくるの?という昨今の風潮への違和感と、ミニマリストは本当にミニマルを純粋に求めてるの?という違和感に対する気付きを書いてみただけ。
みんな、拒食せず過食せず程よく暮らしていきましょうよ。
今更ながら、いや、今更だから思う。ショーンKって素晴らしい人物だった。
仕事に意欲がないやつ、努力を怠るヤツはショーンKを見習え!って思うんだ。
分不相応にも思える人生のヴィジョン・目標を掲げ、もともとハーフでもないのにネイティブに見紛う程の英語力を努力で身に着け、コンサルティングの実績の一つもないのに、相当なコンサル力を見せつけるしゃべりや振る舞いを努力で身に着けた、その向上心の凄さは並ぶもののない偉人だ。
彼の目標達成力、ヴィジョンの実現力に異議のあるものはいるのか。
潔白なだけの無能はショーンKを見習うべきだ!
ひらめいた!ブログのネタ探し。
ある日、ブログに書きたいこと”バーッ”と書いて、添え物のパセリのように、いらすとやから、”ぺっ”とそれっぽい画像貼り付けて、公開ボタンを押して記事をアップという、なんでもないような事をやっている時に、、、
ハッとひらめいたんですよね。
これ、逆にしたらどうなんだろうって。
つまり。
- いらすとや から、適当に画像を選んで貼り付ける
- 画像からインスピレーションされる文章を書く
- 公開ボタンを押す
できあがりの形は同じになるんだけど、最初のやり方との大きな違いは、
記事を書く前にネタを考えなくても良い!
って事。
いらすとやには、多分数千点、もしかしたら、?万点くらい画像があるんじゃなかろうかと思う。
つまりは、ほぼ無限のネタがあると言っても過言ではない。
いや~、俺って天才だと思ったね。
俺のシャドウ「画像ひとつでそんなインスピレーション湧くくらいの脳みそがあったらそもそもネタ探しに苦労しないよね・・・」
神サイト、いらすとやはこちら↓
ブログを書く欲望 と 理由 と アンビバレンツ
はっきり言って、お金欲しい!
ブログのアフィリエイトで生活できるなんて、夢のよう!
でも、コレは欲望願望。目的ではない。
さらに、本性のところでは、目立つのは嫌い。
有名になんてなりたくない。
有名人になるような承認欲求は自分には全くない。
でも、有名になるくらいじゃないとお金は稼げない。
このブログの正直な本当の目的は、言いたい事を言う事。
書きたいことを書くこと。
現実で、当たり障りなく生きている自分が、思ってる事をありのまま言えないストレスの発散場所。
でも、この目的ではお金稼げない!
「おすすめの映画100選!」とか書けば、アクセスが増えるかもしれない。
でもそれで、欲望には貢献できるかもしれないが、目的は満たせない。
エントリに画像でも入れて、分かりやすい図解なんかして、見栄え良くすればアクセスも増えるかもしれない。
でも、そんなチマチマした事をやりたくてブログを書いているんじゃない!
永遠に埋まりそうにない、アンビバレントな想いの間でのたうち回る今日この頃。
時には欲望に偏ったり、本来目的に立ち戻ったり、ブレる事があるかもしれないが、許して欲しい。
藤井聡太四段 の 食事ニュース
対局中の昼飯夕飯情報をニュース冒頭などで毎日見るんだが、いったいなんのニュースバリューがあるねん。
もっと事件・事故や政治とか大事なものがあるんじゃないのか?
別にそういう楽しみもいいだろうし、例えばインターネット上のひとネタとしてなら文句もない。
ところが、テレビって限られた時間の中に、優先度の高いニュースを選択して放送してるわけやろ。何かを選択すれば、裏では何かが落ちてるんやで。
要するに、藤井聡太四段の飯は、何よりも優先度の高いニュースと扱われてるって判断の仕方がアホっぽいねん。
テレビ見るとアホになるって、言われる所以やで。
モテるために努力する と言うのが正直わからない
モテるためにマメになれとか、こう言うファッションがいいとか、こう言う振る舞いをせよ、とか色々テンプレがあったりするけれど、それが意味があるのか?と感じている。
具体的に言うと、例えば、ロレックスの腕時計を着けている男がモテる!という話があって、実際それが事実だとしてもだ、自分の本音はロレックスが嫌いだった場合は、モテても嬉しくはならないんじゃないか?
それはロレックスがモテているだけで、本当はロレックスが好きじゃない自分はモテてないわけでしょ?
モノじゃなくても、例えば、ネガティブな事を言うな!という教えがあって、ポジティブな発言を意識して行って実際モテたとしてもだ、実は内心はめっちゃネガティブだとしたら、ポジティブを演じている自分がモテているだけで、本当はネガティブな自分がモテているわけではないでしょ?
なんでもいいからモテる事が目的ならば、とっても合理的なのはとてもよくわかるんだが、その行為は、「自分という個性を捨てる」と言うことに他ならないのではないかと思えて仕方がない。
本来の自分を捨てて、雑誌に載ってるようなテンプレ人間になってモテたとして、それはHAPPYな事なのか?
結局、素の自分がモテないから、違う自分を演じてモテたところで、どこまで行っても素の自分が永遠にモテる事はないって事になる。
なんて事を思っていると、本当にモテない人生で、多分一生独身の見込みです。
でも、これからも演じない自分で生きていきたい。と思っている。